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<<   作成日時 : 2006/07/08 23:54   >>

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嘘八百とボケの長老は全員引退願います。」について
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より以下引用

北方領土(ほっぽうりょうど)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で、日本が領有権を主張している択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)のこと。北方四島ともいう。現在ロシア連邦が実効支配している。地理的には南千島に属するが、色丹島、歯舞諸島については、北海道本島の属島という見方もある。アイヌ民族が先住していた。

太平洋戦争後、現在に至るまで、ソ連・ロシアに占領・実効支配されており、戦後日本は返還を求めている。現在、日本人北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者にたいして、ビザなし渡航が日露双方に一部認められている。

なお、北千島をふくめた千島列島全体の返還を主張している主要政党は日本共産党だけである。全千島は樺太・千島交換条約で平和裡に手に入れた領土だからという主張である。また、日本の一部には日ソ基本条約などを根拠に「南樺太(南サハリン)・千島列島全島返還論」もあるが、南樺太は日露戦争後のポーツマス条約の結果手に入れた領土であり、平和裡に手に入れた領土とはいえないとの見方もある。いずれにせよ、上記の意見は世間一般からすれば少数意見の域を出ない。

日本以外の国は、日本が「国際法上所属未定」と主張する中・北クリル列島(千島列島)や南サハリン(南樺太)については、ロシアの領有権を認めているが、北方領土については「日本の領土であるがロシアの占領下にある」との立場を取る国も多い。

領土問題
ロシアが占領・実効支配している北方領土を、日本はこれを不当として返還を求めている領土問題。千島列島の範囲が最大の争点となっている。 1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に対して宣戦布告、8月9日より戦争状態に突入。日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土を侵攻。北方領土は現在に至るまで戦後約60年に渡りソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。

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北方領土関係史
日本はロシアより早く北方領土の統治を行い、ロシアはウルップ島より南を支配したことは太平洋戦争以前は一度もない、と日本政府は主張している。実際には、1760年代にロシア人・イワン=チョールヌイが択捉島でサヤーク(毛皮税)を取り立てている。また、最上徳内が日本人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことが知られている。

1855年
日本とロシアは全く平和的に日露和親条約(下田条約)を結び、当時自然に形成されていた択捉島とウルップ島の間を国境線とした。
1869年
蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。
1875年
日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「それまでロシア領だった千島諸島のグループ(le groupe des iles dites Kouriles qu'Elle possede actuellement)」を日本領、日本とロシアの共同統治であった樺太をロシア領とした。この条約はフランス語が正文であったので、日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、ウルップ島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。
条約締結後、当時の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、ウルップ島以北を編入し、国後島からシュムシュ島までが千島国になった。
(1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本領に。)
(1914年-1918年 第一次世界大戦)
(1918年-1922年 シベリア出兵)
(1931年 満州事変勃発)
(1937年 日中戦争勃発)
(1941年 日米開戦)
1943年
10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる。この席上、米国はソ連に対して、千島列島をソ連領とする見返りに、対日参戦することを求めた。さらに、11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。このとき、ソ連のスターリンは米国のルーズベルトに対して、千島列島をソ連領とする見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を約束した。テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰する為に戦争をしていること、日本の無条件降伏を求めることが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言には、第一次世界大戦以後日本が諸外国より奪取した領土を奪還することが書かれている。しかし、当時、ソ連は対日参戦をしていないので、南樺太や千島列島については触れられていない。
1945年2月
ソ連のヤルタで米・英・ソが会談(ヤルタ会談)。ドイツ降伏の90日後、ソ連が日本へ参戦することや日本降伏後、ソ連に対し、南樺太を返還し、千島列島を引き渡すことを取り決める。
1945年8月〜9月
8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾の用意あることを通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書に調印し、停戦が成立した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)により、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、樺太および千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
8月11日に南樺太に侵入した部隊は、南樺太占領後、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領。9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月17日カムチャッカ半島方面より千島に侵入した部隊は、8月31日までにウルップ島までの北千島を占領している。
1946年〜1949年
1946年1月19日、GHQ指令第677号により、琉球や千島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。北方領土には日本人は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本人の本国帰還は認められなかった。1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本人が帰国した。しかし、朝鮮人はその後も帰還することができず、多くは、サハリンに移住した。
1951年
サンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄する。平和条約国会で、政府は、日本が放棄した千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している。(この説明は1956年2月に変更された。)
1956年
日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。第9項で、ソ連は歯舞諸島・色丹両島を平和条約締結後に日本に引き渡すことに同意する。ただし、国後島・択捉島の帰属に対して、意見の一致が得られなかったので、平和条約を締結することはできなかった。(日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした。米国は、北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと公式見解を示し、日本の立場を支持している。しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議議事録は、日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する、との回答があった。)
1960年
岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞諸島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府はこれに反論。
1973年
田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)
1981年
北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日とする。
1991年
ソビエト連邦は解体、ロシア連邦として独立し、領土問題を引き継ぐ。
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解説
1945年9月2日、日本は、降伏文書に調印し、ポツダム宣言を正式に受諾した。このとき、南樺太・千島の日本軍は極東ソ連軍に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領するところとなった。1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。条約中、千島の範囲は明確になっていない。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との講和は、1956年日ソ共同宣言によりおこなわれた。このとき、日ソ間で、北方領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、領土問題で合意するに至っていない。

1941年4月、日ソ間で、日ソ中立条約が締結された。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特殊演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。

ソ連はスターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争や戦後世界戦略に関して幅広い協議が行われた。このなかで、米国はソ連に対して、千島を引き渡す見返りに、日本との戦争に参戦することを求め、合意された。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれ、さらに、ポツダム会談でも再確認されている。

当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国内には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは、米国の参戦要求を了承した。当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が支配している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。

1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって、日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて中国東北部に侵攻。中国軍などと連携して、中国東北部を解放した。中国を解放したソ連軍は、1946年5月までに撤退した。一方、樺太では、8月10日、日ソ国境を越えて侵攻したソ連軍は8月25日までに樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。

1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の直接占領とされた。1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。同条約中、千島列島の範囲は明確になっていない。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36 冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が、日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることも、なかった。このように、北方領土問題の最大要因の一つは、サンフランシスコ講和条約で千島の範囲を明確にしなかったことにある。

サンフランシスコ講和条約をソ連は調印しておらず、ソ連とは、1956年日ソ共同宣言によって、国交が回復した。このとき、日ソ間で領土問題に関する合意が成立しなかった為、平和条約を締結することはできなかった。現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。

ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリスは連合国であり日本・ドイツ・イタリアの同盟国とは敵対していた。つまり帝国主義のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連が連合国として日本を降伏させるのは当然だった。ヤルタ会談で千島・樺太の割譲は合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れ、日本の領土は北海道までとなっているのだから、平和条約の締結こそしていないが受諾後の支配も当然な行為である。そもそもサンフランシスコ条約で日本は千島列島を放棄しており千島列島は当然国後島までである。色丹・歯舞列島なら千島列島ではなく北海道の付属島と解釈し返還しても良いと言う見方になる。

ロシア側が北方領土を返還しない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、以前であれば日本側に「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があった。しかし、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアにとって、日本からの援助を期待する声は少ない。また、豊富な地下資源を持つロシアは、仮に日本一国との関係が悪化しようとも、地理的に陸続きのヨーロッパ諸国や、同じく経済的発展を続ける中国との関係を重視しており、これまで交流の少なかった日本とわざわざ関係を深めようと考える人間が少ないことも要因の一つである。最近でこそロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているものの、いずれも文化的なものか経済的なものであり、またその認識にしてもそれほど深いものではない。現実問題として、北方領土問題どころか日本の存在自体あまり関心を持たれていないという現状がある。

日本政府は現在も領有権を主張しているが施政権が及んでおらず、竹島と共に国勢調査の対象外となっている。

ヨーロッパ議会が北方領土は日本に返還すべきとの提言を出したとの報道がロシアのメディアで流れている。25カ国730人の議員でなるEUの立法機関であるヨーロッパ議会は2005年7月7日に「ECと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文を決議、極東の関係国は未解決の領土問題解決の2国間協定を結ぶべきだとし、具体的には北方領土に関して第二次世界大戦終結時にソ連により占領されたものとし日本と韓国間の竹島問題、中国との尖閣諸島問題を取り上げている。 ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられず、また日本のマスコミも報じてはいない。

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カイロ宣言
(和訳原文の一部)

右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
現代文:
右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領土拡張などをも考えるものでもない
右同盟国(米・英・中)の目的は、日本国より1914年の第1次世界大戦の開始以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国民より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある
1943年、太平洋戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言で1914年の第一次世界大戦以後日本が諸外国より奪取した領土を奪還することを目的とし、この同盟国には領土拡張の意図がないとしている。そのため南樺太や千島列島は米・英・中の奪還の対象とはなっていない。

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ポツダム宣言
ポツダム宣言 八 (和訳原文)

「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
現代文: 「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない
ポツダム宣言がカイロ宣言を履行されなければならないとしていることから、カイロ宣言にあるように1914年の第一次世界大戦開始以前の領土は保全されるべきであるから、ロシアは千島だけでなく南樺太も占領する権利がないことになる。しかしソ連の加わったポツダム宣言には南樺太のことは触れられておらず、ポツダム宣言の時点でヤルタ会談に従い南樺太の主権が削除されていることが分かる。

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ソ連の対日参戦
8月 8日 ソ連、対日宣戦布告
8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達
8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定
8月15日 日本国民に向けて玉音放送
9月 2日 連合国への降伏文書に調印。一般命令第一号発令。本命例により、千島の日本軍はソヴィエト極東軍最高司令官に降伏することが義務付けられた。
9月 5日 ソ連軍が千島列島及び歯舞諸島全島を制圧
占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。北方領土を含む千島列島と色丹島、歯舞諸島はソ連に占領された。翌年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、竹島・千島・歯舞群島・色丹島・樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。ポツダム宣言の「吾等ノ決定スル諸小島」が決定されないまま、サンフランシスコ条約は締結され、さらに、同条約に調印していないソ連と領土に関する合意のないまま、ソ連が占領した島々が現在も実効支配されている。 

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サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
 第二章 領域  第二条(c) (和訳原文)

日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、国会議事録によると、政府は、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると説明している。平和条約は、放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるとの認識のもと、国会承認されている。この説明は、ソ連が歯舞・色丹を日本領とすることに同意したあとの、1956年2月に正式に取り消され、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としている。

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日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十号) 9 

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、突如、国後・択捉を日本領とすることを主張、交渉は行き詰まった。
1956年7月、重光外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。ところが、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日、重光はロンドンで米国務長官ダラスと会談、席上ダラスは、二島返還で妥結することをきびしく禁止した。保守党内部の思惑や米国の指図などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。
1956年10月、鳩山首相は局面を打開すべく、領土問題を棚上げして、すでに妥結している他の問題(戦争の終結、国交回復、未帰還日本国民送還など)で条約(日ソ共同宣言)を締結することを決断、自らモスクワに渡りソ連との交渉に当たった。モスクワ交渉に先立ち、領土問題は棚上げすることで両国の合意が得られていたにもかかわらず、訪問直前になって、自民党は歯舞・色丹を日本領と確約することを共同宣言締結の条件とすることを決議、日ソ共同宣言締結に新たな条件をつけた。鳩山はフルシチョフとの会談で、歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡すことを明記することに成功、日ソ共同宣言の締結を果たした。(参考、松本俊一著『モスクワにかける虹』)

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日本の返還要求の根拠
北方領土が太平洋戦争以前にロシア領であったことは一度もない日本固有の領土である。
1855年の日露和親条約で日露の領土が確定した時に択捉島以南が日本領となっている。
1875年の樺太・千島交換条約で、日露で共同管理していた樺太とロシア領であった千島列島とを交換した際、ウルップ島以北を千島列島としている。従って千島列島とはウルップ島以北のことを指す。
ソ連の対日参戦や日本敗戦後に千島・南樺太をソ連へ割譲することを決めたヤルタ協定は連合国の秘密会談であり、日本との間には何の条約もない。
日本は日ソ中立条約を期限切れまで厳守することを明らかにし、ソ連に対してまったく攻撃を加えていないにもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し北方領土を含む千島列島などへ侵攻しており、重大な条約違反を犯している。
日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月10日の後、8月28日から9月5日にかけてソ連軍が占領している。戦争終結後の一方的な侵攻は日本の領土への新たな侵略に他ならない。
日本はサンフランシスコ講和条約に調印し千島列島を放棄したが、日本が放棄した千島列島に北方領土は含まれていない。講和会議において日本全権吉田茂が、条約にいう千島には四島が含まれないことに留意すべきとする演説を行っている。千島に属するというロシアの意見について、事実上そうであったにせよ、日本固有の領土に戻ることを前提とした条約である。また、この条約で千島全島を放棄したとするソ連自身この条約に調印していない。
ヤルタ協定の当事者であるアメリカは『北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならない』と戦後日本の領有を一貫して支持している。
そもそもソ連が連合国であるならヤルタ協定にて、承諾を受ける必要などないはずであり、ヤルタ協定は信用が薄い。
欧州議会は、2005年7月7日に日本の立場の支持を決議している。
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四島返還論に対する異論(ロシアの主張を含む)
一度も他国の領土になった事の無い土地が他国に編入されるのは歴史的にはそう珍しい事ではない。
ヤルタ会談でソ連の参戦や戦後の千島列島割譲は連合国に対し事前に承諾されている。
進撃開始は日ソ中立条約の破棄を日本国に宣言した後である。条約破棄の伝達が遅れたのは、深夜であったため日本政府の関知が遅れただけに過ぎない。
東京裁判確定判決は日ソ中立条約を“誠意なく、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたもの”と認めている。[1]
1945年、北方領土警備の任務を受けていた中川中将、岩田中尉と交わした四島の暫定的移譲の合意密約「国後密約」の効力を認めている。(1960年にロシア側で判明したが、日本はその存在を認めていない。)
サンフランシスコ講和条約において日本は千島列島を放棄している。色丹・歯舞列島なら千島列島ではなく北海道の付属島と解釈し返還してもよい。
当時歯舞諸島を除く3島は北海道千島支庁の管轄内にあった。また明治初年に導入された旧国制度では国後までが千島国とされた。
千島の範囲が国後までという根拠は、日本国の辞書に択捉島と国後島を南千島としている事からも明らかである。
サンフラスシスコ講和条約以前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、同条約直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄・条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に[草葉隆圓・外務政務次官が、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している。(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)
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領土問題の交渉過程
1956年日ソ共同宣言では歯舞、色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ。(終戦後の日本国との平和条約にはソ連は調印していない) しかし、択捉、国後の帰属を巡って対立、結局合意できなかった。その後、冷戦の進行によりソ連の立場は領土問題は解決済みへと変化した。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。

冷戦終結後、ソ連がロシアに変わり両国の関係は軟化、1997年のクラスノヤルスク合意では、日本は「すべての分野について両国の関係を発展させる。その中に領土問題を含める」という立場に転換した。

日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞、色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。

2005年11月21日の未明、日ロ首脳会談を行ったが具体的進展もいまだない状態である。


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「「嘘八百とボケの長老は全員引退願います。」について」について >ロシアの経済が、危機な時に援助をえさに、すべてを奪還すべきだった。 ...続きを見る
*自由の翼*ITUKYUU
2006/07/09 22:03

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
ご協力に感謝致します。是だけの資料は大変なご苦労があった筈。しかし、この様な資料が存在し、歴史的事実に元ずく資料公開は、現在の世代には絶対に必要です。記憶力のメモリーが足りない私としましては、一読2読も大変ですが、何とか頑張ります。有難う御座います。
itukyuu
2006/07/09 01:54
itukyuu様へ
検索すれば、それほど
苦労するもんではありません。
このウィキペディア
(Wikipedia)も
信用できない事もありますが
ここに書かれている事
については、正確だと
思います。
北方領土については、
二島だけを返還してもらうのは
間違っていると思います。
ロシアの経済が、危機な時に
援助をえさに、すべてを
奪還すべきだった。
もう、すでにロシアはお金持ち
になってしまった。
日本政府の対応が遅すぎました。
今からでは、倍のエネルギーは
いるでしょう。
それでも、領土奪還に向け
動かなければなりません。
日本の固有の領土なんですから
精一杯外交努力して、それでも
国際社会が認めてくれなかったら
その時は、素直に従いましょう。
日本は、ルールを守る国?
なんですからね
安易な妥協は、我らの子孫に
顔向けできません。
イプサム
2006/07/09 02:48
死者に鞭打つ気はありませんが、近年、北方領土奪還最大のチャンスを棒に振ったのは、橋本元総理だと思います。なぜなら、ソ連崩壊からしばらくした98年の橋本エリッツィン会談で、橋本氏は、ロシア対し「我が領土から出ていけ」どころか領土に対して日本とロシアの線引きをするという血迷った案を自ら持ち出し、事実上領土とロシア利権を交換してしまったからです。しかも、いわゆる「二島先行返還」の二島である歯舞、色丹は、四島(国後・択捉・歯舞・色丹)の面積の僅か10%未満であり、これを受け入れたが最後、残りの90%以上の面積を占める国後、択捉は絶対に戻ってきません。そして、その急先鋒にたっていたのが、あの鈴木宗男です。たまに彼をTVで見かける時、こうした国土を己の利権の為に、外国に売り飛ばした輩を平気で出演させるTV局はどうかしているなと思うのですが、逆に考えると領土問題という極めて重要な事に関心のない国民性が、あういう売国奴を生み出したのかなとも思います。
万能なモグラ
2006/07/09 04:17
万能なモグラ様へ
故橋本総理にも、責任
あった事は、よく知りません
でした。
鈴木宗男が、二島返還に
必死に動き、ややこしく
してしまったと思って
ました。
イプサム
2006/07/09 18:44

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「嘘八百とボケの長老は全員引退願います。」について イプサム/BIGLOBEウェブリブログ
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